あなたの隣のシネフィルちゃん

映画について語っていきます。

『アス』

早稲田松竹にて『アス』を鑑賞しました。

 

結論から言うとロードショー中にも一度観ていて期待はずれだったのですが、もう一度観てもあんまり面白さがわかりませんでした……。実際3回観ていずれも何処かで寝落ちしてました苦笑

監督は『ゲット・アウト』でアカデミー賞脚本賞受賞のジョーダン・ピール。コメディアン出身で俳優としても活躍されています。前監督同様、黒人俳優を主役におき政治的メッセージを含ませたユーモラスな作品となってます。

主役のアディには「世界で最も美しい顔ベスト100(2015)」に11位でランクインしたルピタ・ニョンゴ。この映画は彼女の演技力におんぶにだっこです。

ストーリーの方は要約するとドッペルゲンガーが主人公一家を襲う、その背景には悲しい過去が……というスリラーです。しかし、荒唐無稽な設定、竜頭蛇尾な演出、消化不良をきたす伏線にイライラしてたらエンドロールになってしまいました。

ドッペルゲンガー、遊園地の迷路、双子、兎というモチーフは「鏡の国のアリス」を連想させます。対して「ハンズ・アクロス・アメリカ」、黒人一家と白人一家の対比、『us』というタイトルは元アメリカ政権への皮肉が込められているそう。エレミア書第11章11節が意味深に持ち出されます。「それゆえ主はこう言われる、見よ、わたしは災を彼らの上に下す。彼らはそれを免れることはできない。彼らがわたしを呼んでも、わたしは聞かない。」という一節らしいのですが、単純に11:11が鏡写しの対称になるので雰囲気のためのモチーフでしょう。

地下からやってきて人間を襲うのはテザートと呼ばれ、その名の通りに地上の人間とシンクロして動きを操れる設定なんですが、これがまぁガバガバで都合よくテザリングしてるシーンがほとんどないんですよ。ジェイソンがプルートーを倒すときくらいですね、この設定が活きてるの。テザートが地上に出てくると回線落ちしてしまうのでしょうか?ハサミ持たせて自傷させるとか、硫酸を浴びせるとかあるでしょうよ。

また、スリラー/ホラーと言ったジャンルに分類される映画かと思いますが主人公一家が状況に順応するのが早すぎてあまりスリリングさに欠ける気がします。中盤にはためらいもなくテザート殺して何人殺ったか言い争ってますもん……。コメディアン出身の監督だからホラーと言う枠からシュールな笑いを届けたいのかも知れないけど、怖くもなければ面白くもないから困った困った……。演出も特出したものはなく、ストーリーが進むにつれダレてくるのでなんだか眠くなってしまいます(実際に爆睡しましたので)。

この映画、ネットでのレビューだとなかなか高評価なのですが、監督ブランドに騙されてませんかと疑ってしまう。イースターエッグ的な小ネタがたくさん詰め込まれているみたいなので、そう言うのが好きな人は面白いのかな。気になる人はググってね!

最後に1つ誉めたいのはマイケル・エイブルズのサントラ。オープニングで流れる「ANTEM」はラテン語っぽい造語で歌われ不気味な雰囲気を一層引き立てます。また序盤で一家がカーラジオで聴いているLunizのI Got Five On It、この曲はベイエリアのヒップホップシーンにおける名曲だそうですが、ラストでアディとレッドが対峙するシーンでこのトラックがオーケストレーションアレンジで流れるのも面白いです。音楽の使い方でいえばN.W.A.のFuck The Policeの使い方もユニークでしたね。(へらこ)

『ランボー』と『一人だけの軍隊』

ベトナム帰還兵のジョン・ランボー(以下ランボー)は、グリーンベレー隊員時代の戦友、デルメア・ベリーの自宅を訪ねるが、化学戦の薬品の悪影響でガンを患い亡くなっていた事を知る。失意の中ランボーは小さな街ホリデーランドを訪れる。しかし踏み入った途端保安官のティーズルから身なりと面構えを理由に呼び止められ街を追い出されてしまう。諦めないランボーは街に舞い戻ろうするが、ティーズルの手によって浮浪罪および公務執行妨害、そして凶器所持の疑いで逮捕されてしまう。警察署内の地下室に移送されたランボー。そこでは拷問めいた取り調べが行われていた。ランボーベトナム戦争時のトラウマを想起し、覚醒。数多の保安官相手に大立ち回りを演じて脱走する。ランボーの孤独な戦いが始まった。

デヴィッド・マレルによる『一人だけの軍隊』はアクションスリラーというジャンルに分類される小説であるものの、ハードボイルドの形式で世代間の対立というテーマや心理面を深く掘り下げる要素があった。かたや『ランボー』ではそうした要素は排除されサバイバルアクションを強調している。とはいえ、『一人だけの軍隊』や『ランボー 最後の戦場』に見られるような殺戮シーン(『一人だけの軍隊』では警察官の持つ剃刀を見た途端ベトナム戦争時の拷問がフラッシュバックしてしまい殺害している)は全くないと言っていい。殺人に関して言えば、一人しか殺しておらず、それもまた事故死というかたちであり、ランボーはほとんど手を下していない。つまり明確な殺意を持って人々を狙っていないのだ。むしろ無理解な警察側の方がランボーを殺そうとしている。

またキャラクターの設定変更もかなり目立つ。映画版のランボーは超人的かつ寡黙な男である。だが『一人だけの軍隊』では多弁を極める。こと裁判の場面(映画にはない場面だ)では長々と意見陳述をする。思うに映画版の寡黙な男という変更は素晴らしい改良だと思う。映画ではセリフの多さが映像を殺してしまいかねないからだ。一方原作のティーズルは朝鮮戦争経験者でありもうひとりの主人公という設定。だが映画ではその設定は潔く削られて単なる悪党になってしまっていて、もうひとりの主人公という役割すらない。つまり単純なキャラクターに格落ちしているのだ。この設定変更は改悪と言うべきかもしれない。次はトラウトマン大佐。映画では重要な役割を果たす彼だが、原作ではランボーと顔見知りではなく上官でもない。

物語も大きく改変していて、特にラストシーンは異なっている。映画のランボーはトラウトマン大佐に抱き抱えられるかのように連れられ自首する。が、原作ではなんと自殺してしまう。ショッキングさでいえばやはり後者のほうが頭ひとつ出ているし、また反戦ランボーの苦悩といった主題も汲み取りやすい。一応このラストは撮影されていたが、使用されず結局先述のラストへ着地したようだ。

どちらがより面白いかという比較はできないが(そもそも目指している場所が違うのだから当然だ)、両作ともに味のある作品なのでぜひとも手にとってその目で確認していただきたい。

『セブン』

エイリアン3』という駄作を撮った監督、デヴィッド・フィンチャーが、映画史に残る傑作をつくりあげるなんて95年以前の人間に言ってもだれも信じないだろう。

連日雨が降り続ける。そんな憂鬱な街で刑事として働き退職間近の男がいる。ウィリアム・サマセット刑事(モーガン・フリーマン)だ。如何にもベテランな老刑事でくたびれた風体である。退職一週間前の彼の元に、血気盛んなデビッド・ミルズ刑事(ブラッド・ピット)が現れて相棒に。その翌朝、殺人事件が発生し、現場へ急行する。現場となる家内は暗闇に覆われており、懐中電灯で照らしてもほとんど見えない。なんとかリビングルームにたどり着くと、肥満体型の中年男性がスパゲッティの入った、大きなサラダボウルに顔面を埋めている。その男は大量のスパゲッティをたらふく食わされあげく足蹴りされて結果死んでしまったのだ。一体誰がなんのために?現場の冷蔵庫の裏側には「GLUTTONY(大食)」の文字が。第二の被害者は金銭に対して貪欲な弁護士、グールドなる男だ。彼は弁護士事務所の自室で無残な死体となって発見された。贅肉部分を切り取られ大量出血し、亡くなったようだ。現場の床には被害者の血で「GREED(強欲)」と書かれている。サマセットはこの一連の事件を、キリスト教七つの大罪に倣って行われていると断定する。第二の現場をくまなく調べると、飾られた絵画の壁から指紋で出来た、「HELP ME」の文字が。指紋はビクターことアランなる前科者のものだった。住所を割り出してSWATと共に犯人宅へ踏みこむ、サマセットとミルズ。しかしアランは真犯人ではなかった。そればかりか一年前からベッドに拘束されドラッグを投与されていた。怠惰の罪でだ。ここにきて捜査の行き詰まりを感じたサマセットはFBIを買収して図書館のリストを入手する。そしてジョン・ドゥなる一人の男に辿り着いた。彼の自宅を訪問すると帰宅途中のジョン・ドゥに邂逅し、銃撃戦を演じる。ミルズはジョン・ドゥを追跡するが、あと一歩のところで逃してしまう。第四の被害者は娼婦だ。ペニス型のナイフで陰部を傷つけられて死亡した。肉欲の罪である。すると続けざまにモデルの顔がナイフで切りつけられる事件が発生。鼻まで削がれた彼女は睡眠薬で自殺を図るが、一命をとりとめる。壁には「PRIDE(高慢)」の文字が。嫉妬と憤怒の罪が残されたままジョン・ドゥは自首する。ジョン・ドゥは、最後の二人の犠牲者を明らかにするために、サマセットとミルズを街から高圧送電塔のある荒野へと連れだす。土砂降りの雨もすっかり止み、三人は暖かい太陽の光に照らされながら、残りの罪、嫉妬と憤怒を待っている。すると遠方から不審な配達用のバンがやってきた。サマセットはそれに駆け寄って停車させる。運転手は「デビット・ミルズに荷物を届けに来た」という。トランクからダンボール箱を出して地面に置いた。開封すると箱の中身はミルズの妻の頭部。ジョン・ドゥは「嫉妬」に駆られてミルズの妻を殺したのだ。その事実を知ったミルズは、妻を殺された怒りと悲しみに感情を支配され、ジョンドゥへ銃口を向ける。冷静な態度のジョン・ドゥ。サマセットは「殺せばお前の負けだ」という。逡巡の末ミルズは、ジョン・ドゥへ六発の弾丸を放って殺してしまう。ジョン・ドゥによる七つの大罪がここに完成した。

もはやあらすじ不要の有名作である。映画好きなら知らぬ者はいないだろう。

相反する刑事がコンビを組んで事件の捜査にあたる、というアイデアは昔からある。たとえば『野良犬』や『夜の大捜査線』、そして『48時間』、近年の映画なら『デンジャラス・バディ』等がそうだろう。実際デヴィッド・フィンチャーは渡された脚本を読んでありがちな映画だと思ったようだ。しかし犯人が自首するシーンで考えを改めて映像化することを決めたという。斬新な脚本だがプロデューサーの手によってラストシーンを変更されてしまったのも事実だ。劇場公開版では、サマセットがトレンチコートに帽子をかぶりヘミングウェイの一節を引用して締め括っていた。対して試写会のバージョンでは、ミルズがジョン・ドゥを射殺したのち画面は暗転しTHE ENDであった。後者の方が遥かに残酷で救いようがない、素晴らしいエンディングのように思える。が、先述の通りプロデューサーの横槍が入って無情にも変更された。

またこの映画への批判のひとつとして、「ミルズ刑事はなぜ怒りの罪で殺されないのだ」というのがあるようだが、解釈するに、ジョン・ドゥは生死に関して重要視していないからだろう。たとえば高慢の罪の女だって顔をズタズタにされただけで殺害されず生きるも死ぬも自分次第という選択をさせたのだから。

すると次は「じゃあ人殺しが目的でないならジョン・ドゥは何をしたいんだよ」となる訳だが、答えは簡単で、七つの大罪を厳守しない人々への説教である。思い出してほしいが、サマセットは捜査の段階でジョン・ドゥの犯行写真を見ながら「これは説教だ」と言っている。またジョン・ドゥは移動中の車内において終始「七つの大罪を厳守しない人々への説教」を滔々と語っており、同時に「自分は神に選ばれていて使命を受けて罪人に罪を償わせた」(大意)とまで言っている。やはり動機は「七つの大罪を厳守しない人々への説教」とみた方が正しいだろう。(無能)

参考文献

『セブン』映像特典

ロケットマン

キネマ旬報シアターにて『ロケットマン』の4度目の鑑賞を終えた。何度観ても面白い。第91回アカデミー賞4冠を果たした大作、『ボヘミアン・ラプソディ』を友人の前で何度もボロクソ言っていたこの私も、『ロケットマン』は非常に純粋な気持ちで楽しむことができた。比較対象として " ボラプ " を挙げること大いなる悪意を隠し切れないが、ミュージシャンの生き様を描いた娯楽大作映画という共通点を持ち、監督のデクスター・フレッチャー、衣装デザインのジュリアン・デイは両作品に関わっている。

私は別にエルトン・ジョンのファンではない。ムーラン・ルージュユアン・マクレガーが歌っていたことで「ユア・ソング」を知り、The WhoのTOMMYにハマり「ピンボールの魔術師」のカバーを聞いたくらい。あとハッチポッチステーショングッチ祐三がアヒルの恰好で歌っていたのが「クロコダイル・ロック」のパロディだと分かったのは高校生の頃。その3曲くらいしか知らなかったのだ。

ロケットマン』の物語はミュージシャンとして大成し巨額の富とは引き換えに、あらゆる依存症を抱えて自暴自棄になったエルトンがAAに駆け込むところから始まる。自身の幼少期から現在までの人生を独白する形で物語は進む。幼少期に両親から十分な愛情を受けることができなかったことから、 "レジナルド" の名前を捨てて " エルトン・ジョン " として生きることを決めた青年。しかし、彼が本当に求めていたのは "レジナルド・ドワイト " として受け入れてもらうことであった。ありのままの自分を受け止めてほしいというメッセージは、SNSの普及により承認欲求が膨れ上がった現代社会に生きる私たちの琴線に触れるものではないだろうか。

この作品は所謂ジュークボックス・ミュージカルであり、耳馴染みのメロディーがひっきりなしに聞えてくる。エルトン自身がエグゼクティブ・プロデューサーとして名を連ねているため、彼の曲が贅沢に使用されている。主演のタロン・エガートンも素晴らしい。彼の声質はエルトンのそれとは異なるため、物まねではなく彼らしく歌い上げているのも好印象である。

さてさて、ボラプとの比較に戻る。ボラプではキャラクターの内面性に肉薄することなく、クイーンの、とりわけフレディー・マーキュリーの業績を称える神話のような印象を受ける。下積み時代はさらっと省略され、ラストのライブシーンの迫力で盛り上げる。ステージを見上げるファンの視点だ。一方、『ロケットマン』ではエルトンがカウンセリンググループで半生を振り返るという視点で愛に飢えた幼少期から下積み時代の葛藤、セレブとなった後の孤独を丁寧に描いている。セクシャル・マイノリティーの描写に関してもテーマに紐づけて描いているロケットマンに軍配が上がる。私自身、アロマンティック・グレーセクシャルであると自覚しているが、可視化されない少数派の立場からもロケットマンの性的少数派の描写はとても誠実であると感じた。

第77回ゴールデングローブ賞2冠を果たした同作品、ぜひアカデミー賞でも衣装デザイン賞あたりで受賞していただきたい。ファッションショーのようにころころ変わる衣装はどれも素晴らしく、眼鏡ユーザーとしては豊富な眼鏡のデザインに惹かれてしまった。

しかし60年代、70年代から活躍するミュージシャンの伝記映画ではなぜだかディスコムーブメントが黒歴史と描かれがちである。この『ロケットマン』も例にもれず、マネージャーのジョンが「コカイン中毒の軽音楽」と言い放つ。ディスコ・ミュージックにもたくさんの名曲があるのになんだか腑に落ちないなぁ…(へらこ)

『日本のいちばん長い日』のオリジナルとリメイクに見る天皇タブー

1965年、一冊の本が上梓された。半藤一利による『日本のいちばん長い日 運命の八月十五日』だ。その二年後にあたる1967年、岡本喜八の手によって映画化され公開された。ストーリーを主に三つある。

1945年の8月14日から8月15日の24時間内に起こった、クーデター未遂の宮城事件とポツダム宣言の受諾とそれを知らせる天皇のラジオ放送である。

岡本喜八版『日本のいちばん長い日』の主人公は日本政府や軍部そのものが主人公と言えるだろう。

そして『日本のいちばん長い日』にはもうひとりの主人公とでも言うべき人物がいる。昭和天皇である。が、この昭和天皇、まったくと言ってよいほど顔全体が明瞭にうつらない。ロングショットで身体全体を映し出されてもかろうじて顔の輪郭が捉えられる程度で細部までは確認できない。ではクローズアップはどうだろう。右肩越しから顔面を捉えているが、目と鼻が断片的に可視化されている程度でやはり顔の全体を映し出しているとは言い難い。何より(私の記憶違いでなければ)予告編や宣伝ポスターにさえ顔を出していないのだ。もうひとりの主人公であるにもかかわらず、である。推察するに、天皇タブーがあったのではないかと思われる。1946年元日、たしかに天皇人間宣言を行なった。が、だからと言って突如タブー視する者がいなくなる訳ではない。なによりこの60年代ならばまだ天皇を神格化していた者もたぶんにいたはずだ。実際、映画公開時期の六年前にあたる1961年には、深沢七郎の短編小説『風流夢譚』の天皇描写に対してとある右翼少年が憤慨し言論抑圧を目的としたテロを起こした、通称『嶋中事件』が起きている。つまり、タブーは依然として存在していたのである。だからオリジナル版『日本のいちばん長い日』における天皇の顔は表象される事なく隠匿されたのではないか。時は流れて2015年。『KAMIKAZE TAXI』で有名な原田眞人監督の手によって『日本のいちばん長い日』はリメイクされた。肝心の天皇はモックンこと本木雅弘が演じた。するとどうだろう。天皇は隠匿されず堂々たる面持ちで画面にあらわとなっているではないか。予告編やポスターでさえその存在を隠そうとせずあたかもそこに居て当然かのようにうつし出されている。右翼による目立った抗議もなかった。したがって天皇タブーは確実に薄れているといえよう。とはいえ、日本映画界では未だに昭和天皇を正面から取り上げる劇映画が製作されていないのもまた事実である。(無能)