あなたの隣のシネフィルちゃん

映画について語っていきます。

ロケットマン

キネマ旬報シアターにて『ロケットマン』の4度目の鑑賞を終えた。何度観ても面白い。第91回アカデミー賞4冠を果たした大作、『ボヘミアン・ラプソディ』を友人の前で何度もボロクソ言っていたこの私も、『ロケットマン』は非常に純粋な気持ちで楽しむことができた。比較対象として " ボラプ " を挙げること大いなる悪意を隠し切れないが、ミュージシャンの生き様を描いた娯楽大作映画という共通点を持ち、監督のデクスター・フレッチャー、衣装デザインのジュリアン・デイは両作品に関わっている。

私は別にエルトン・ジョンのファンではない。ムーラン・ルージュユアン・マクレガーが歌っていたことで「ユア・ソング」を知り、The WhoのTOMMYにハマり「ピンボールの魔術師」のカバーを聞いたくらい。あとハッチポッチステーショングッチ祐三がアヒルの恰好で歌っていたのが「クロコダイル・ロック」のパロディだと分かったのは高校生の頃。その3曲くらいしか知らなかったのだ。

ロケットマン』の物語はミュージシャンとして大成し巨額の富とは引き換えに、あらゆる依存症を抱えて自暴自棄になったエルトンがAAに駆け込むところから始まる。自身の幼少期から現在までの人生を独白する形で物語は進む。幼少期に両親から十分な愛情を受けることができなかったことから、 "レジナルド" の名前を捨てて " エルトン・ジョン " として生きることを決めた青年。しかし、彼が本当に求めていたのは "レジナルド・ドワイト " として受け入れてもらうことであった。ありのままの自分を受け止めてほしいというメッセージは、SNSの普及により承認欲求が膨れ上がった現代社会に生きる私たちの琴線に触れるものではないだろうか。

この作品は所謂ジュークボックス・ミュージカルであり、耳馴染みのメロディーがひっきりなしに聞えてくる。エルトン自身がエグゼクティブ・プロデューサーとして名を連ねているため、彼の曲が贅沢に使用されている。主演のタロン・エガートンも素晴らしい。彼の声質はエルトンのそれとは異なるため、物まねではなく彼らしく歌い上げているのも好印象である。

さてさて、ボラプとの比較に戻る。ボラプではキャラクターの内面性に肉薄することなく、クイーンの、とりわけフレディー・マーキュリーの業績を称える神話のような印象を受ける。下積み時代はさらっと省略され、ラストのライブシーンの迫力で盛り上げる。ステージを見上げるファンの視点だ。一方、『ロケットマン』ではエルトンがカウンセリンググループで半生を振り返るという視点で愛に飢えた幼少期から下積み時代の葛藤、セレブとなった後の孤独を丁寧に描いている。セクシャル・マイノリティーの描写に関してもテーマに紐づけて描いているロケットマンに軍配が上がる。私自身、アロマンティック・グレーセクシャルであると自覚しているが、可視化されない少数派の立場からもロケットマンの性的少数派の描写はとても誠実であると感じた。

第77回ゴールデングローブ賞2冠を果たした同作品、ぜひアカデミー賞でも衣装デザイン賞あたりで受賞していただきたい。ファッションショーのようにころころ変わる衣装はどれも素晴らしく、眼鏡ユーザーとしては豊富な眼鏡のデザインに惹かれてしまった。

しかし60年代、70年代から活躍するミュージシャンの伝記映画ではなぜだかディスコムーブメントが黒歴史と描かれがちである。この『ロケットマン』も例にもれず、マネージャーのジョンが「コカイン中毒の軽音楽」と言い放つ。ディスコ・ミュージックにもたくさんの名曲があるのになんだか腑に落ちないなぁ…(へらこ)