あなたの隣のシネフィルちゃん

映画について語っていきます。

ウディ・アレンが最終編集権に拘る理由

自身の性的虐待疑惑によってなにかと周囲が騒がしいウディ・アレン。そんなウディ・アレンだが、彼は自身の監督した映画作品たちの最終編集権をデビュー当時から現在に至るまで保有し続けてきた。その権利を保有する理由とはなんぞや?というのが今回の話です。その顛末についてお付き合いください。

『泥棒野郎』(1969)はウディ・アレン(以下ウディ)二作目の映画にして実質デビュー作でもある。なぜ実質かというと、初めて作った『どうしたんだい、タイガー・リリー?』(1966)は、谷口千吉『国際秘密警察 鍵の鍵』(1965)のセリフを吹替で変えて、世界最高のエッグサラダのレシピを捜索する、スパイ・コメディに仕立てあげた即席映画だから。だがウディ本人は「未熟な作品」として本作を酷評し、黒歴史としている。したがって本作『泥棒野郎』こそ真のデビュー作と言えるだろう。

ウディは『泥棒野郎』をつくるにあたって自身の報酬を少なくした。その変わりに映画のコントロール権を要求。是が非でも最終編集権を手に入れたかったからである。ある意味当然と言えるだろう。ウディは出演・脚本を担当した『何かいいことないか子猫チャン』(1965)と『007/カジノ・ロワイヤル』(1967)で痛手を負ったのだから。前者の映画の出来は惨憺たるものだった。構成が破綻気味な上、支離滅裂なのだ。こうなった原因は脚本を担当したウディでなくピーター・セラーズに還すべきだろう。ピーター・セラーズは本作の主導権を握っていて、事あるごとにダイアローグや物語をいじって書きかえたのだ。ウディは抗議したものの聞き入れてもらえず激しく落胆した。完成品を公開すると批評家から謗られたものの興行的には成功をおさめて、その年の映画興行成績5位に食い込んだ。といっても制作中ウディ本人はひたすら苦しんだ訳だが。そしてその二年後に公開された『007/カジノ・ロワイヤル』でも同様の苦痛を味わった。

ウディはフェルドマンの指示でロンドンへ向かい、豪華絢爛なホテルにて待機した。実際の撮影に入るまで六ヶ月もの時間を要したという。その間に脚本家や監督が次から次へと交代した。一方のウディはギャンブルを興じたり、散文詩や舞台劇を執筆したりしつつ、ロンドン周辺を当てもなくぶらぶら散歩することでヒマを潰した。やっとの思いで完成した映画はつじつまの合わない駄作となった。著者はBSで実際に見た事があるが、ストーリーとストーリーが繋がっておらず何を言いたいのか不明だったと記憶している。当然の如く当時の批評家からこっぴどく酷評された。なにより最悪なのが、興行的成功に結びつかず惨敗を喫した事だろう。こうした苦い経験がウディを最終編集権獲得へと走らせたのだ。

以後ウディは、自身の作品の全てをコントロールすることとなる。(無能)

参考文献

『ウディ』デイヴィッド・エヴァニアー

『メメント』

断片的かつ非線形的な物語の映画、『メメント』。その主人公レナード・シェルビーの動力は妻殺しをした者への復讐心だ。元保険員のレナードは妻を強姦し殺した人物に取りつかれている。ある日、自宅に二人組の男が侵入する。目的はレナードの妻を強姦するためだ。異変に気づいたレナードは犯人のひとりを射殺するが、もうひとりの男は逃してしまう。その際にレナードは後頭部を殴られその影響で前向性健忘を発症。記憶が10分程度しか保持できなくなる。それでも復讐を果たす為、ポラロイドにメモを取りつつ、重要な事柄はタトゥーとして彫って、テディやナタリーといった人物の助力を得ながら犯人へと肉迫する。しかし記憶を保てないレナードに復讐は不可能なように思える。

物語構成は衝撃の一語につきる。なぜなら結末から始まって過去へと時間を遡るからである。それ以外にも時間軸通りに進む映像もあるゆえ観客に混乱を呼びおこす。こうした独自の話法を採用したことで、ありがちな物語構造、つまり三幕構成を回避している。さてその奇抜な物語を説明しよう。まず映画はポラロイドのクローズアップで始まる。ポラロイドには死体と壁に散った血が写し出されている。するとポラロイドは徐々に色彩を失っていき、真っ白になる。この段階で映像は逆再生されていることを了解できるだろう。ポラロイド写真はカメラのなかへ戻っていく。男はカメラをふところへしまう。そして投げ捨てた拳銃は手のなかへ収まる。そこから一発の銃声と男の叫び声·····。この一連の描写によって複雑怪奇な物語構造を説明している。たとえば色彩を失うポラロイドはのちのち時系列的に流れてく白黒のシーケンスとして呼応していると理解できよう。一方、逆再生される映像は逆の順序で示される、カラーシーケンスを表している。すなわち、物語の構造へと直結しているのだ。この説明によってちょっとは複雑な物語を紐解けるのではないかと思われる。

さてなぜこのような突飛な構成にしたのか。それは単なる思いつきでなく狙いがあってそうしている。その狙いとは、新しい記憶を形成できない、記憶喪失者の世界を体験させるためである。これを観客にも感じさせる為、だからわざわざ逆再生にしているのだ。逆再生ならば、観客は、レナードの過去の記憶なんて知る由もないのだから、否応なく記憶喪失者の感覚を味わうことになる。クリストファー・ノーランはそこまで計算してこの映画を組み立てているのだ。

またレナード・シェルビーは独白でサミュエル・“サミー”・ジャンキスの話を語る。サミーは主人公のレナード同様、前向性健忘を患っているらしい。その介護に追われほとほと疲れている妻は、日課の注射をサミーに複数回打たせて亡くなってしまう。そしてサミーは精神病院へと移送された。その際、サミーは精神病院内の椅子に座っていて、そのほんの一瞬だけサブリミナル的にレナード・シェルビーに切り替わる。この描写によって理解できるのは、サミー=レナードということである。それを踏まえた上で見ると、レナードの妻は決して強姦魔に殺害されていない(実際強姦魔に倒され床に伏せる妻が瞳を瞬きするショットがある)どころか、レナードの手によって(悪意はないが)殺害されてしまっているのだ。

記憶喪失者のレナード・シェルビーが異形の相貌となって浮かび上がる傑作である。(無能)

『バイス』

‪アラームが部屋中にけたたましく鳴り響き、人々が廊下を走る、テレビ画面には燃える世界貿易センタービルアメリカ人ならだれもが慌てふためく光景だ。だが副大統領のディック・チェイニーはちがった。チャンスを見出していたのだ。権力の強化というチャンスを。‬

‪この映画は酒浸りのろくでなしディック・チェイニーアメリカ副大統領の座につき権力を振るう男になるまでの物語である。‬

ディック・チェイニーの物語全体を通して先ず思った事は、彼に理念らしい理念はなく、ただ妻のために権力を維持したいだけ、ということだ。劇中、チェイニーは上司のドナルド・ラムズウェルドに「政治理念は?』と聞く。するとラムズウェルズドはまともに答える事なく一笑するのみ。チェイニーはラムズウェルズのこの姿勢に影響を受けることとなる。政治理念などないという姿勢に。いっぽう彼の妻、リン・チェイニーは上昇志向の強い女性であり、ディック・チェイニーに叱責を飛ばして「二度とがっかりさせない」事を誓わせる。この時からチェイニーの政治家としての邁進が始まる訳だから罪深い妻である。‬

‪といっても、彼の娘は同性愛者であると発覚し、一旦は政界から身を引く。虚偽のエンドロールが流れてハッピーエンドをみせる。その場面はまるでチェイニーが政界に舞い戻らなければ、世界はめちゃくちゃにならずに済んだ、とでも言いたげだ。しかし彼は戻ってきた。主にバカ息子ジョージ・w・ブッシュ大統領のせいで。‬

‪2000年某日、ブッシュは事もあろうにチェイニーへ副大統領候補の要請を出した。しかしなにかと勿体ぶってすぐに引き受けないチェイニー。これには裏があった。自分が確実に権力を掌握するための作戦なのだ。その謀略にまんまとハマったブッシュはエネルギー政策や軍事、おまけに外交政策の権限を与えてしまう。そうしてチェイニーは権力の座につき、9.11のテロに乗じてイラク戦争へと突入していく。そのイラク戦争では、イラク市民の怯える姿が描写されていて、この問題がアメリカのみにとどまらない事を示唆する。戦争の結果、数十万人におよぶ死とイラクイスラム国家台頭を許してしまった。‬

‪映画のラスト、彼は画面をみつめながらこう語る「私は謝らない(中略)選挙で選ばれて、国民に仕えて、望まれたことをやってきた」。自分自身の行為に後悔など感じていないし、また国民の声に答えたまでだというわけである。つまり本当の黒幕はチェイニーではなく、チェイニーを選んでしまった(あるいは台頭を許してしまった)国民だ、というメッセージなのかもしれない。(無能)‬

『エブリシング・マスト・ゴー』

セールスマンのニックは社会人かつ妻帯者でありながらアルコール中毒に陥っていた。それだけならまだよかったものの、酒に酔っ払って問題を起こしてしまい16年も勤めていた会社を解雇されてしまう。失意の中帰宅すると自身の所有物はすべて庭に放り出され家の鍵も変えられていて妻まで出て行ってしまっていた。どん底ニックの運命やいかに。

レイモンド・カーヴァーの短編小説『ダンスしないか?』に基づくドラマ映画。正直に白状するとこの原作は未読なので映画と原作の違いなどの比較はできない。

主演は『サタデー・ナイト・ライブ』日本では『俺たちフィギュアスケーター』に出演し有名となったコメディアン、ウィル・フェレル。したがって、コメディを期待する方もいるかもしれない。だが本作はあくまでドラマ寄り。笑いを期待すると悪い意味で裏切られてしまうかもしれないので、注意が必要だ。

さてこの映画の魅力はやはりなにをおいてもウィル・フェレルにある。ウィル・フェレルといえば先述のとおりコメディアンである。なので当然のように漫画のように誇張された演技で観客の笑いを優先しそうだが、今回はそれを抑えてシリアスな演技を披露している。しばしばコメディアンがシリアスな演技に挑戦して新しい側面を見せることもある(その代表はある人にとっては『パンチドランク・ラブ』のアダム・サンドラー。あるいはジム・キャリートゥルーマン・ショー』)が、元々ウィル・フェレルは演技力のある俳優だ。それは『主人公は僕だった』や『メリンダとメリンダ』によって証明されている。といってもこの二作はコメディテイストのある映画なので、彼にとってはまだお家芸であったはずであり、枠組みからはみ出していたとは言えない。しかし本作では違った。映画の真面目なトーンに合致するようアルコール中毒のダメ中年が一人立ちできるまでの姿を不用意にふざける事なく演じてみせる。この演技によって彼は俳優としての道を新たに開拓したのではないかと思う。

なお日本ではDVDや配信などは一切されていないため、鑑賞はかなり難しいが、英語を熟知している方は是非ともなんとかして見てほしい。その価値はあるのだから。(無能)

『13日の金曜日』(1980)監督・ショーン・S・カニンガム

1958年のクリスタル湖キャンプ。何者かの一人称視点で始まる。視線の先には情事にふける男女が。何者かが気付かれぬよう背後から近づいて惨殺…。時は流れて1980年。クリスタルレイク指導員候補生たちがクリスタル湖キャンプの再開準備のためにやってきた。その道中「あそこは呪われた土地だ」という忠告をするなぞのおっさんに出会すものの、指導員候補生たちは聞く耳を持たずサマーキャンプを満喫する。しかし若者たちは何者かによって次から次へ惨殺されていく。

犯人は男性である。そうミスリードさせようとする演出が随所に見られる。たとえば、殺人鬼の足元を写した際に靴がみえて、その靴がゴツゴツとしたいかにも男性用と思わしき靴なのだ。同時に大きめの黒いズボンも履いていて女性とは思えない。さらに顔面めがけて斧をたたき込むといった荒技は如何にも力技という感じで男を連想する。度々写る手もゴツゴツしている。こうした演出の妙もあって観客は再三述べている通り犯人=男性と思いこむ。そしていざ殺人鬼が全身をあらわにして登場すると女性なので衝撃を受けてしまう。すなわちどんでん返しなのである。とはいえ近年の観客からすると犯人がジェイソンでないことに衝撃を受けるかもしれない。肝心のジェイソンは終盤の夢に登場するのみであり、それもものの数秒。ジェイソンの本格始動はPART2まで待たねばならない。ちなみにホッケーマスクを被るのはPART3からである。

またスプラッターシーンは意外にも抑え気味。昨今のスラッシャー映画の過激さと比較すると、優等生という趣すらある。それでもショックシーンは凝っていて、たとえざ第三者の視点かつワンショットで殺すので、フェイク感は消えて、今まさにその殺人現場に居合わせているかのような感覚を覚えさせる。

ラスト。ジェイソンの母の首をはねてなんとか生きのびたファイナルガールは、ボートに乗って湖へ逃げる。そこに甘美かつ幻惑的なメロディーがかぶさって、幻想的な雰囲気を醸しだす。ボートで湖を漂いながら一夜を明かした。目を覚ますと、まばゆいばかりの太陽が顔を出している。すると水面下から突然ジェイソンが飛びだして彼女に襲いかかる。抵抗虚しく湖へ引きずり込まれてしまう。しかしそれは夢であった。彼女は病院のベッドの上である。このラストは『キャリー』(76)の墓場から突然手の飛びだす場面の剽窃かもしれないし、あるいは『脱出』(72)の水辺から出現する手かもしれない。両方参考にしたという可能性もある。とはいえ生きのびたこの彼女はPART2のオープニングであっさり殺害されてしまうのだが…。(無能)